歌舞伎の先生。
先日「子役の子供達を見ていて思うこと」を書いていて、いろいろ思い出したので忘れないうちに書いておこうと思う。
※長文です。
小さい時、歌舞伎の舞台に子役で何度か呼んでもらった。5公演くらい。
多くは端役だったけど1時間くらい舞台に出続けるような役もあり、この役はなかなか大変だったと思う。ほとんど正座しっぱなしだった。
歌舞伎の舞台に良く呼んでくれる先生の一人にO先生がいた。
O先生は女性で、歌舞伎に出演する子役を専門に指導する先生だ。
元々日本舞踊の家柄の方で、歳の頃は50歳前後。髪の毛をオールバックにキレイに纏め上げた厳しい表情が印象的な細身の先生だった。
その表情から滲み出るにたる、容赦ない本気の指導が有名で、演技指導だけにとどまらず子供の躾から日常の立ち居振る舞いにいたる全てのことにまで、
とにかく一人の人間として厳しい先生だった。
躾は子供達の親にも及び、先生に泣かされた子供と親は数知れないと噂に轟いていた。
逆鱗に触れようものなら獅子が目覚めたかのような怒号が飛び、気に入らない役者さんは先生の鶴の一声で舞台から引きずり降ろすことをいとわない場面も2度ほど遭遇した。
これからもきっとこんなに厳しい人に出会うことはなかなか無いなと思えている。いまのところ。
厳しいのには理由があった。
子供のころは理不尽だと感じた厳しさも、大人になってすこし遠くから懐かしめば、あれはきっと長年続いた伝統への責任だったのだなと感じる。
O先生と初めて対面したのは小学校1年生か2年生の時。初めて歌舞伎の舞台に呼ばれた初稽古の時だった。
同じ演目に出演する年上の子達が何人かいて、そのうちの一人がミサンガを付けて練習にきていた。
O先生はそれを目にするや弟子の方にすかさず、断ちバサミを持ってきてと言い、
その子役の子を呼んで、おまえはこんなものを着けて舞台に上がるつもりなのか、今手を切られるかミサンガを切るかどっちがいい?と聞いた。
その子はサッカーが得意で、将来サッカー選手になりたいとオーディションの時に言っていた。その願掛けをミサンガにしていると楽屋でも教えてくれた。
子役の子はミサンガを選び、涙の大粒とともにミサンガは床に落ちた。
そのあとお母さんに、どういう考えでこの稽古に来ているのか、甘い考えならもう来なくていいよ。と言った。
僕達他の子役はそれを少し後ろから見ていた。背中に冷たい汗が流れるのを初めて経験した。
その舞台は5、6人の子役達がいて、みんな小狐の役で出演した。
セリフはなかった。狐の鳴き声くらい。狐跳び、と言われる独特のステップで舞台上を駆けまわる役だった。
僕はまるまるとしており、運動オンチだったので初めこの狐跳びなるものが全くできず、なぜかスキップみたいになってしまっていた。
O先生に1人子狐じゃなくてタヌキがおるな、と言われた。
その公演の稽古で無事に狐跳びはできるようになったけど、今度はスキップが出来なくなった。
次にあったのは半年後、違う歌舞伎の公演だった。場所は京都歌舞練場。この時も何人か出演する子役のうちの一人として呼ばれ、恐る恐る演技指導を大勢で受けた。
このときは特に何もなかった気がする。相変わらず稽古が厳しかったくらいか。
次の年、ちょうど京都の南座の改装が終わった頃で、上記の1時間出ずっぱりの役で呼ばれた。小間使いの丁稚役。
子役は自分一人だけだったので、はじめて先生とマンツーマンで対面することになった。
一応歌舞伎3回目ということもあり、この人が何に厳しいか理解できたつもりでいた。
セリフや動きは頭に入っていたのでとくに怒られることはなかった。
舞台は2部構成で、歌舞伎の舞台は途中で回転する仕掛け舞台になっている。表で演じている間に裏では大道具さんが次の舞台に作り替える感じだ。
前半と最終局面で2回回転する。
僕は前半と中盤だけ出演した。
特に前半は花道からでかい酒用の甕?二升くらいお酒が入る木の甕をもって入場し、舞台で待つ人物にとどけ10個くらいセリフのやりとりののちもう一度花道から帰ることになっていた。
前回前々回とセリフがほとんど無かったことを考えると、ちょっと緊張感が増したと言える。
中盤はとくにセリフは無く、ただ舞台で座っているだけだった。ただずっと正座なので足が痺れて感覚が必ず無くなった。
同じ演目の役者の方に、足の痺れに効くツボと、痺れにくい正座の仕方を教えてもらった。
南座は改装したてで、木の香りとおしろいの香り、あとツヤを出すためのニスが新装開業の雰囲気を強く出していた。僕はその香りがすごい好きだ。
それまでの南座は補習はしててもやはりボロボロで、木の杭とかトゲとか飛び出し放題だったので下手なところをさわるとトゲが刺さったりしていた。
舞台が綺麗になると自然と中の雰囲気も役者さんも明るく朗らかな感じがする。
とくに初日まで緊張はなかった。
それ以上にO先生と稽古で対面することのほうが緊張した。
さて初日の日、O先生が楽屋に来て、じゃあそろそろ行こうかと言った。花道から出て行くところを送り出してくれるらしい。
この時まで名前ではなく役名で呼ばれていた。
たしか三吉とか三平だったと思う。僕は裏手から花道の方へ向かい、花道裏の小部屋、鳥屋と呼ばれる小さなで部屋で待機した。
小さいたれ幕から舞台を除くと大舞台で役者さん達が演じているのが見えた。あとそれを一点に見つめるお客さんの姿も。
僕は猛烈に緊張してきた。いきなりだった。
緊張感で膝が震えていた。あと目が回った。どうしようと焦っているとO先生が突然肩に手を置き、頑張れよ!と言った。
僕はその場で吐いてしまった。
O先生はびっくりして目を丸くした。
一緒にいた劇団のマネージャーさんは、ぞ、ぞぞぞ、雑巾取ってきます!と鳥屋を飛び出して行った。
僕は初めて猛烈に怒られることを覚悟した。
もう帰れと言われた子役の子が脳裏に浮かぶ。
でも予想に反してO先生はお腹を抱えてうずくまり声を殺して笑い出していた。
実際には鳥屋の部屋は客席の真横なので声は出ていなかったが、うずくまって肩を震わせ泣きながら笑っていた。
O先生が笑っているのは初めて見た。しかもツボにはまっている。鬼の目にも涙というやつか、と思った。
幸い衣装にはかかっていなかったので、
とりあえず出番だから行きな、と言われ僕はそのまま講演初日の舞台を踏んだ。
今は笑っていたが戻ったらやっぱり殺されるんじゃないかと心配だったので、ちゃんとセリフを言えたのか覚えていないが、まぁたぶん大丈夫だったはずだ。身体と口は稽古通りに勝手に動いた。
ひどい匂いの鳥屋に戻るとO先生がまだ笑っていて、マネージャーさんは顔面蒼白のままだった。そら緊張するわ。と言われた。
鳥屋で吐いたのはお前が初めてだとも言われた。
改装したての南座の花道の鳥屋は、ちょっと酸っぱい匂いになった。
その公演では舞台中盤にも、セリフ無しでただ座っているだけで出演しているので、長時間のせいで寝てしまい、役者さんが焦って起こし、気付いたお客さんに笑われたりしたこともあったが、概ね無事に終わった。
そのあとも何度かO先生は舞台に呼んでくれた。
そのたびに顔見知りらしいスタッフさんに、こいつは花道で吐いたと言われた。
名前も役名ではなく下の名前で呼んでくれるようになった。
あと笑顔で抱きしめたりしてくれるようになった。
はじめて会ったときの印象が強烈だったので、こちらは相変わらずガチガチだったのと、あと他の子達には相変わらず超怖かったので油断できなかったけど素直に嬉しかった。
中学に入って、O先生が体調を崩し入院したことを聞いた。
お見舞いに行きたかったが、東京で入院とのことだったので当時は京都に住んでいたので行けなかった。
僕は中学卒業後、劇団を退団した。
景気が悪化して高い月謝を払う余裕が家に無くなったからだ。
あれから十数年、この項を書くに当たりO先生の名前をGoogleで検索すると、少し前に亡くなられたことを知った。
いくつかの記事で、大変厳しい先生だったと言及されており、先生本人の言葉は見つからなかったが周りの方にあえて言及されているところを見ると、改めてやっぱりかなり厳しい先生だったんだなと感じる。
現役で演じられている役者さんのインタビューの記事でもO先生のことを記述している文もあって、あの時厳しい稽古で教えてもらったことは生涯忘れないと語っておられた。
O先生は通算2000人もの子役を指導した子役指導の第一人者とのことだった。
2000人のうち何人がO先生に泣かされたかは想像できないが、笑顔を見た子はさらに少ないと思われる。
僕もO先生の指導の厳しさとその伝統を守るための強い取り組み方の姿勢は決して忘れない。
そしてあの鳥屋での優しい笑顔も。