あの四年前の雪の日。
※長いです。あと痛いです。ご注意ください。
四年前。上京して初めての冬の日。土日に降り続いた大雪は、僕に人生で初めての雪かきを経験させてくれた。
週が明けた月曜日、朝の通勤電車の遅れなんてまったく考慮しなかった僕と妻は、いつも通りの時間に家を出た。歩き慣れているとは言えない通勤経路に降り積もる雪と凍りついてしまったアスファルト。日常とは違う風景に少し心が高揚していたのかもしれない。妻とお互い滑るなよと冗談を言い合いながら綺麗な雪を崩しながら歩いていった。
傾斜のきつい坂だった。僕の身体は凍った歩道でオーバーヘッドキックのような弧を描き、妻の手前滑った恥ずかしさとショックからかうまく着地だけはしようとし、その悪あがきはとっさの踏ん張りとして左足だけで全ての衝撃を受け止めてしまっていた。結果として僕の左足は骨折した。
枯れ木が折れた時と全く同じ乾いた音が身体の内側から聞こえ、消えたつま先の感覚と猛烈な痛み、そして倒れた先からの雪の冷たさを感じたことを今でもはっきりと覚えている。
あ、折れた。
驚いた顔の妻に伝える。
妻は救急車呼ぶ?と短く聞いた。
僕はうなずき、気絶とも朦朧とも言えない時間を救急車の音が聞こえるまで過ごした。
何人かの人が心配しながら僕をまたいで行く。僕が倒れているところしか歩ける道がないからだ。
この間おまわりさんがきて、顔面蒼白の妻に状況をいろいろ尋ねているのを見ていた。
救急車は10分ほどで到着した。この時の時間は8時25分。長い病院生活が始まった。
意識がはっきりとしたのは病院の中、すでに大雪による事故で病院に運び込まれた人たちが多くいて、採血と検査と、レントゲンは長蛇の列の状態だった。そのまま運ばれた担架に乗って待つことになった。
折れていた足の靴を脱がされるのが一番痛かった。頼むから麻酔を打ってくれとお願いしたが、検査が終わるまで一切の痛み止めの類は処置できないとのことだった。
スネから先は文字通りプランプランのため、看護師さんが足を掴むと引きちぎれそうな痛みが走る。食いしばるのと同時に肺から唸る震えた空気が絞り出されていくのを感じる。
看護師さんは優しさの鬼だった。
一気にやらないと痛いだけよと言葉だけが耳に聞こえる。
僕は自慢じゃないが痛みには強いほうだ。部活でラグビーをしていた時、骨折の経験も2回ほどあった。でも今度の痛みは人生で経験した痛みの倍ほど痛かった。
靴が脱がされるとパンパンに腫れ上がった足が露わになった。
この時に多分スーツを脱いだはずだが覚えていない。気付いた時には入院着を着ていた。
血圧と採血をし、救急車で運ばれた担架のままレントゲン室に運びこまれる。
レントゲン用の台に移らないといけないが振動が左足に伝わるとコリコリとした折れた骨同士が触れる感触で痛みが走る。その場にいた全員で同時に抱えて移してもらった。
あらゆる角度からレントゲンを撮りまくる。
体勢を変える指示が出るたびに意識が白くなる。そしてそれに続く痛みでまた気が冴える。
レントゲン室から出ることができたのは10時半を過ぎたころだった。
まだ顔面蒼白の妻が大丈夫?と聞く声に応えたあと、僕の意識は再び朦朧となった。
動かなければ痛みは遠くで痛いだけだ。
思えば東京に出てきて慣れない同居生活のせいか最近彼女とはケンカばかりしている。
長い一人暮らしのおかげで伸びきった自由だった翼が折れていくのを感じてしまっていた。
そして左足も折れてしまった。歩く自由も失われた。
12時半。外科の先生が来てくれた。Ohハレルヤ!あなたは神だ!早くこの痛みを取ってくれ! 痛み止めでも麻酔でも一気にブスっとやってくれ。
ところで足の骨折の処置の仕方をご存知だろうか。
ドラマや映画で足を釣っている描写が描かれていると思うがあれはじつは文字通り本当に釣っている。
つまりカカトの骨に鉄の棒をドリルで通し、滑車よろしく足の反対側には荷重を吊るす。常時反対方向に引っ張り続けるのだ。
痛みで暴れる僕を抑え込むのに看護師さんは7人必要だった。
野獣のように暴れた。暴れまくった。痛みで身体が浮き上がった。エクソシストの映画みたいに暴れた。両手片足に2人ずつ、身体に1人付く形で押さえ込まれた。
現役時代にこれほどの力が出せたなら、きっと楽にレギュラーを取れたと思う。すごい力がみなぎるのを感じる。
いままで感じた痛みの三倍痛かった。
しかしそこはやはりプロの先生。この処置は折れた足の痛みの全てを見事に消してくれることができた。
Oh my God! あなたは神だ!地獄を救う救世主!
奈落の世界の毒の沼地が一気にパンジーの花畑になって広がって行くような気分だ!!
マンガでワンピースのドクトリーヌ先生は病気の子供を治療した際「ハッピーかい?」と聞いた。
僕もこの時ほどハッピーを感じた事はない。それほど痛みは急激に無くなった。
動けないのでその場で外科の先生の診断を受けた。神の診断。結果は全治3ヶ月、脛骨腓骨両方骨折、足首の脱臼及び付け根の粉砕骨折。幸い神経とアキレス健に損傷はなかった。複雑骨折という病名は正式ではないそうだが、まあ俗にいう複雑骨折だった。
早ければ五日後、腫れが引いた時点でプレートで骨折箇所を固定する全身麻酔手術をするとのこと。
ちなみにこの雪で滑ってこの病院に運びこまれたのは僕で3人目。まだまだ増えそうで油断できないと心配していた。いまのところ僕が一番症状が酷いとも言われた。
処置後、妻の顔色は大分戻っていたが疲れたようでかなり疲労した顔をしていた。
病院に運び込まれて約5時間。彼女の心配もピークだったようだ。しかも最後に獣の如く暴れる叫び声も聞かせてしまった。
本当に痛かったのは彼女の方かもしれない。
ほんとうに申し訳ないと思う。あと恥ずかしいとも思う。
仕事は幸いにも繁忙期を抜け、落ち着き始めた時期だった。長期で抜けても問題無く誰かに負担をかける心配は少なかった。
同じ病室では他に2人足を釣ってる人がいた。全部で6人の病室。この2人もここで絶叫したに違いない。それとも症状が重くなければそれほど痛いわけではないのだろうか。
ただ間違いなくこの病室の人たちは新しく来た大の大人の野獣の如く絶叫を聞いているはずであり、きっと痛みに弱く大げさな奴だと思われたに違いない。とても恥ずかしかった。
足を骨折するとトイレには行けない。またお風呂も不可能。この狭いベッドの上がこれからしばらく寝たきりの自分の生活空間の全てを担うことになる。
また当然だが完全に禁煙。入院中に喫煙が発覚すれば強制転院になる。
僕は退院の日までコピー用紙を丸めて口に咥えることにした。
トイレに行けないのは地獄だ。僕は手術まで一回もトイレに行かなかった。デリケートな心と身体はそれに応えた。
妻は一度家に帰り服やらゲーム機やらいろいろ持って来てくれた。一番欲したのはノート。
ぼくは時間の許すかぎり文字やら絵やら書きまくった。
退院するころには真っ黒なノートができ上がった。
あと手術の前日に一応全身麻酔で意識が戻らないこともあるらしいので妻と友人、仲良くしてくれた人達に当てて感謝の言葉も書いた。
結果としてそれは当人たちに届く事はなかったけど、その時の本心はマジで人生の終わりを覚悟した言葉になった。
自分がこれほど人に感謝を伝えることに抵抗がない人間だと初めて知った。
なんとなく学校を出てなんとなく会社に入り、だんだんささくれ立っていっていたのかもしれない。
幸いにも時間は腐るほどあったのでいろいろ考え直すには充分すぎる時間があった。
これほどビビっていた全身麻酔の手術は嘘のように一瞬で終わってカカトの針金は外された。無事に目覚めると足には大きなムカデのような手術痕が二列、外と内に刻まれた。この手術痕は四年経った今も僕の足に残っている。
いまはもうリハビリも遠い昔に終え、後遺症らしい後遺症は消えて日常の生活に戻れている。
変わったのは妻に対しての自分の態度と雪に対しての恐怖心くらいだろうか。それまで事あるごとにケンカしていたのが嘘のようにケンカしなくなった。たぶん、長い入院で離れたのは一緒に暮らし始めてから始めてだった。良い意味でアクセントになったんだと思う。
この降り積もった雪を見ながら思う。もしあの時骨折しなければ、もしかしたら今でもまだケンカし続けていたかもしれない。
そして違う道を選ぶことになっていたかもしれない。それほど酷い態度だった。
でも、あの酷い痛みのおかげでなんとなくケンカしなくなりそこそこ仲良く一緒に暮らしていけている。
だとしたらまあ、あの痛みはダメダメだった自分への罰だったのかもしれない。そして更生するために時間をくれた痛みでもあったのかもしれない。
今年もまた東京に雪が積もってしまった。
妻は雪のたびにからかう。あんたはあの時、コケたんだから二度と雪の日にスパイク無しの靴で外に出てくれるな。二度と入院するな、そしてもう二度と心配をかけさせるなと。
これは多分これからも雪の日に言われつづける文句の1つになったのだろう。