十数年ぶりに父に会いに行かなければならなくなった。
あまり良くない内容なのだけど、このブログは僕のその時の考え方や感じ方、悩んだ感情をそのまま残しておく役割を持っている。
平たく言うと自分の感情の捌け口にブログを利用させてもらってきた。
加えて、ブログに取り組む者は身の回りのことはなんでもネタにすべき、との好きなブロガーさん達の言葉と姿勢を尊敬もしている。
だからこの主題の通り、会いに行く直前の、いまこのタイミングで覚悟を決めて文にしてみようと思う。
どこにいて、今なにをして暮らしているのかわからない父に会いに行かなければならない大きな理由は、先月僕の祖父、父の父親が亡くなってしまったことと、その際の遺産相続に関連するもろもろの手続きの書類関係を、父の親戚と父の姉に託されてしまったためだ。
長いので例によって内容の合わない方は読まなくても大丈夫です。
僕には残念な父がいる。
父にどれぐらいろくでもないことをされてきたのか詳しく説明するのはちょっとつらいので、僕の身体の損傷具合から一部想像していただければ幸いだ。まったく庇うつもりはないが全部が全部彼のせいだったと言うわけではない。
大人になってからの骨折と、部活中のケガに彼は関係していない。
打撲や傷は消えたが顔の縫い跡は残っている。それ以外もいろいろあったけどそれは重いので書くのはやめる。
父がどれくらい残念か端的に表してみるならば彼は、
DVアル中引きこもり無職ニート借金人間だった。
とりあえずここまで書いてみて震えてきたので景気付けにカッコ笑でもつけさせてもらおうかな。
父(笑)
父と過ごした時間に楽しかった記憶は一切ない。それなりに一般的なイベント事もあったような気がするが結局最後には父の暴力装置と暴言回路がスイッチオンになるため、何もない日のほうがむしろハッピーだった。
彼は毎日お酒を大量に飲み、なにが気にくわないのか僕を殴ったり蹴ったり、時には違う酷いことをした後、何時間も僕のダメなところを延々と吐き続ける完全に壊れた生活を行うことを日課としていた。
世間はバブル崩壊のまっさかり。
働きたくても仕事が無かった、と言ってしまえばそれまでだが、彼もそのせいかそれまでの仕事を全て失い、そのイライラやら八つ当たりやらを発散する方法をお酒を飲むことや家の壁、家の物、身近な自分より力の弱い人間に向けるタイプの性質を獲得してしまったようだ。
幸か不幸か僕には兄弟がいなかったたため、父の被害を受けるのは僕だけで済んだ。
しかし誰かしらにこの事を相談するという選択肢は小さい僕の頭には生まれてこなかった。僕の中で父はアメリカの大統領より権力を持ち、僕は父から受ける事実を結果として受け止めるか受け流すかしかできない子供になった。
生活は困窮し借金で生活をつなげていた母は、借金を返済するためにパートを増やし、家に帰れば呑んだくれの父に罵詈雑言を吐かれる状態が2年くらい続いた。
さすがに金銭面と生活面に限界を迎え、それまで殴られたりしなかった母もたびたび暴力を受けてしまい、ついに母の我慢は限界となった。この最低な暮らしと家の荒れぐらいに終止符を打つべく、母は僕を連れて家を飛び出し自分の実家に泣きながら公衆電話から電話をかけた。
この時の父の抱えた借金は母のお父さん、僕からすれば母方の祖父が肩代わりしてくれたと後で知った。
いままで申し訳なかった、これからは心を入れ替えて働く。と、久し振りにシラフに戻った父の言葉を何故か信じた母は、一応父に最後のチャンスを与え、心を入れ替えることを条件に、実家に戻ることになっても離婚せず父も同じく母の実家に行くことになった。
世間体を気にして離婚できなかったのかもしれない。
さすがに同じ家には住めないので、実家近くの祖父が所有する小さな一軒家で新しい生活がスタートした。
結果として父の職探しはうまく行かなかった。
半年ほど職探しはしていたようだが、それまでずっと自営で会社勤めの経験をしてこなかった中年の父に、世間の不況の波はことさら厳しかった。
僕は中学生になり、部活やらなにやらを理由に家に帰るのを遅くし、一応仕事を探すために家を出て行き肩を落として帰ってくる父とはあまり顔を合わせないように生活していた。
母のいない時に父と顔を合わすとろくでもないことになった。
父は昼間にお酒を飲むことをまた始めてしまっていた。
夕方には潰れて眠り、深夜に起きて何かやり、また昼間に酒を飲む。
父はお酒を飲むとスイッチが入ったように別人に変わり、というよりも人以外の何かになり、普通では考えられないようなことをするただの怪物に豹変した。
あとお酒を飲んでいる間のことは全く覚えていないようだった。
ろくでもないことをしておきながら記憶が無かったからごめん。などと言うのだから、どれだけこの人は都合が良いんだろう。とその時は思っていた。
母は酔った父を避けるようにパートに出ており、朝から夜遅くまで家を空けた。
もしかしたら僕の知らないところで母も酷い目にあっていたのかもしれない。
父に猶予をどれくらい与えるつもりだったのかは知らないが母は黙って待っていた。僕も黙っていた。
残念ながら祖父は黙っていなかった。
祖父は父の状態に気付いていなかったが、昼間まで寝て酒を飲むだけの父の姿を偶然目にしてしまい、家に警察を呼び、お酒で酔いつぶれ寝ていた父を自分の所有する家から引っ張り出し、即日この家から出て行くよう要求した。
家にパトカーが来たらしいその日、僕が学校から帰ると珍しく母が家におり、憔悴しながらもどこか気が晴れた様子で父と離婚することにしたと伝えられた。
この時自分の家族はずっと壊れていたんだなと理解した。小さい時にもう少し知識か行動力があればしかるべきところへ父の状態を伝え、しかるべき対応を取れていたのかもしれない。
彼をここまでどうしようもなくしたのは僕と僕の母だ。母の忍耐強さと僕の無知、行動力の無さが彼をここまで十二分に堕とす温床になってしまった。
僕は父が出て行く数日前に階段を上から下に落とされたり他のところに大怪我をしていたため、それを理由に学校と習い事に行くのを一旦止め、いままでなかなか見られなかったテレビを見たりしているうちに中学を卒業した。
さすがに高校へは行って欲しいと母に言われたので高校へは進学したが、なんとなくこのまま学校へ行き続ける生活の理由が分からず、またどうしようもなく壊れてしまった自分の家にいる居心地の悪さに、どこか遠くに行きたい願望が高まってしまい、ただひたすらこの家を出て行くことだけを考え続けた。
家を出るためには資金が必要だと結論を出し、僕は取り敢えずアルバイトを始めた。家にいる時間はさらに短くなった。
しばらく父とのやり取りはなかったが、携帯電話、当時はPHSが普及し始めていた時期で、僕はアルバイトで得ていた毎月の資金と、携帯電話会社で働いている知り合いの人のコネで、早々にPHSの確保が出来ていたため家を出た父に連絡を取ってみた。
最近仕事を見つけて働いていること、一人暮らしは大変だということ、もうお酒は飲んでいないということを聞いてその時は安心した。シラフではいたって真面目な人のようだった。
そのあとも1ヶ月単位くらいで連絡を取り合うようになった。大半はお酒を飲んでいないかの確認のためだった。
もしかしたら父が真面目にしていればまた母に許されて戻ってくることになるかも、などと思ったのかもしれない。
母はこのころどこで知り合ったのか聞くのを忘れていたが、一人の男性と再婚していた。僕は知らなかった。
バイトの無い日に家にいると母が帰ってきて、あ、あんたいたの?今日からこの人も一緒に暮らすことにしたからー、と言って再婚相手の男性を連れてきた時に初めて知った。
これで家に父の帰る場所は無くなった。
この家は僕の居場所でも無くなった。
その昔父が過ごした部屋には別の男性が暮らすことになり、僕は改めて自分の力ではどうにもならないことがあるんだなと思った。
当時この男性とはあまり良い関係ではなかった。一方的に僕が警戒していたせいだ。
家を出た今となっては普通にしゃべれるし、誕生日にお祝いを贈ったりできる。
母をまあまあ大切にしてくれているようだ。
この男性からしてみれば僕は、再婚相手の連れ子の高校生の息子ということで、普通に考えればどう接していいのかかなり難儀な相手だったはずだ。
喋ろうにも滅多に家にいないし、そういう意味でこの旦那さんはかなり頑張ったんだと思う。
祖父は父の件があるため母の再婚を許さず、男性の素行調査を依頼したりして関係は悪化し、僕達もこの家を出て行くことになってしまった。
新しい家はさらに帰る場所には思えず、僕は行動範囲を広げるため原付のバイクを買うことにした。中型バイクの免許は取っていたが高くて買えないので父と母が昔乗っていたと聞いたホンダの50ccのモンキーを中古で買い、このバイクが通学とアルバイトの足になった。
原付といえどもバイクはさすがに金額が大きかったため、さらにバイト代の稼げる深夜も年齢をごまかして働くようになった。
ほとんど高校には行かずアルバイトばかりしていたため成績は目も当てられない酷いものだったが、なんとか卒業することができ、進路を決める時にこのまま深夜のアルバイト先に就職しようと考えた。
ただ社員の人の給料を聞いてみるとこの先の人生の辛さを少し味わってしまった気がしたので、このバイトとは別の何か他のことをしようと考え、学生ローンで取り敢えず興味のあった科目のある専門学校に入学した。
学費は卒業後にローン返済が始まるタイプなので一年も無駄にできなかった。一年目から就職活動を始め2年目になる前に内定をとり、ここで幸運なことに内定先からまぁまぁの時給でアルバイトに来ないかとの話を受けた。しかも時間はフルタイム。
このことを専門学校に相談すると学校的には就職さえしてくれれば良いらしく、フルタイムのアルバイトに行っていても出席扱いにしてくれるとのことだった。
身の振り方を同年代で一番最初に決めることに成功した僕は、大手を振って出席をまったく気にせず内定先で働きはじめた。
あと、なんとなく内定先には黙って深夜のバイトも続けていた。
とにかくさっさと家を出る資金を貯めたかった。
この時、父側の父親、つまりこちらも祖父なのでややこしいのだが、前述の祖父とは別の祖父から、最近父の借金について電話がたまにかかってくると聞かされ、猛烈に嫌な予感がし始めた。
父に確認するため会いに行くと、やはり父はまたお酒を飲みはじめてしまっていた。
彼は前みたいにはならない!前みたいにはならない!とやたらと言い、その言い草と家の中の荒れようが僕の不安を一層煽った。
この人は一人になると本当にだめだ。とくにうまくいっていない時にお酒を飲んでいる時は。
父方の祖父は激怒しており、もう父は勘当同然になってしまった。
僕は資金が充分に貯まっていたので母と母の旦那さんには内緒で家を出ることにした。想うところはいろいろあったが、今度は僕のせいで母の第2の結婚生活が破綻されてはたまらないという気持ちのほうが強かった。
ただ、未成年では家を貸してもらえないのでシラフの時の父に保証人になってもらい、父を見張るために父の住んでいる場所の近くのアパートを借りることにした。
敷金礼金無し即入居可。築30年越えで家賃3万円の超オンボロアパートだったがお風呂が付いていた。正直安ければなんでも良かった。
中学生のころからの目標をやっと達成することができたのがうれしかった。
ここは就職先まで4駅と近く、始業40分前に家を出ても十分に間に合う。父が何かしでかせばすぐに帰れる。これ以上無い物件だった。
あと、家を出るついでに家庭裁判所に行き苗字を変えることにした。母には悪いと思ったが勝手に再婚していたことと、再婚相手の方の苗字に勝手にされていたのがなんとなく抵抗があった。また祖父に見限られる寸前の父には、もう自分以外に身寄りがないことなどが理由になった。そのままそう書いて家裁に提出してみた。
苗字変更の決定権を持つ担当してくれた家裁の裁判官の方は、この未成年の僕の主張に難色を示し、残念ながら苗字変更届けを1回では受理してくれなかった。半年ほど休みの日に裁判所へ通い、3回目か4回目でやっと受理してくれた。
父は、酒を飲んでいたがさすがに以前のように飲み続けるわけにはいかなかった。お金が無いため買えないのだ。
父に苗字を変えた、と伝えてみたが特に感想は無かった。その代わり今度は毎週僕の家にお金を貸して欲しいと来るようになった。
僕が断った時は、数日経ったあとに祖父から電話があり、父の借金先からまた電話があった、というのでどこか危なげなところから借りているらしいことがわかった。
仕方ないので僕は父にお金を渡すことにした。
決して多くはなかったが、アルバイトを掛け持ちしている身としては痛烈な出費だった。
しかしそんなことは気にせず父は僕の内定先にもお金の無心にやってくるようになり、それを職場の人に見られ、アルバイトの子が変な人に絡まれている!と噂になってしまうようになってしまった。
内定先に事情を説明し、すみませんあれは父ですということを伝えなんとか事なきを得たが、平日の昼間に異常に眠そうにしていることを指摘されその理由を白状させられた。おかげで深夜のバイトを辞めることになってしまった。さすがに昼間働きながら深夜のバイトをするのには限界が来ていたのと、せっかくもらった内定を取り消されてはたまらないのでこれには従うことにした。
父にバイトを辞めたことを伝え、次にお酒を止めてくれと言い、ついでに借金の件で祖父に謝らないと勘当されることを伝言すると、父はもうお酒を止めることを決心したと言ってくれた。
そのあとしばらく父からの連絡はなかった。僕は無事アルバイトから新入社員になることができた。同じ年代の人や学校の先輩の卒業生が何人かいたので楽しい職場だった。
無事学校も卒業し、入社までの休みの合間に車の免許を取りに行ったり、深夜のアルバイトをやめる時に深夜バイトの人から動かなくなった中型のバイクをタダ同然でもらったので、なんとなく自分で直して動くようにしたりして過ごした。
春になり、久しぶりに父から連絡が来たので会ってみると、新しい就職先を見つけたことを話してくれた。ただ少し場所が遠く、交通費が出ないので自転車で通うのはつらいため、僕のモンキーを貸して欲しいとのことだった。
ちょうど中型のバイクは調子が悪いながらも動いてくれていたため、まぁモンキーなら貸してもいいか、と思い貸すことにした。
事故を起こしたら怖いので一応バイクの名義を移してくれと言われ、自賠責と任意保険に入るなら良いよと言い、モンキーに乗って帰って行く父を見送ってこの日は別れた。二十数年ぶりにモンキーに乗った父はすごく嬉しそうで、それを見て僕もなんとなく嬉しくなった。
父が笑ったのを見たのは小学校の時以来だったと思う。
数日後、僕の家からは外れるが、父の家の近くに小さいバイクショップが有り、そこのショーウィンドウにはシルバーのキレイなモンキーが飾られているのを知っていて、僕はシルバーのモンキーが好きだったのでなんとなくいつもそこを通ってまだ売られていないか確認するようにしていた。
この日もなんともなしにこの道を通ってショーウィンドウを見るために歩いて行くと、いつもとはシルバーのモンキーの配置が変わっており、モンキー型の原付バイクが二台並べて置いてあることに気がついた。
新しく並べられたモンキーはどこか見慣れたモンキーだった。
見慣れたマフラー、見慣れたパワーフィルター、見慣れたタンクのステッカー、見慣れた傷。
僕は頭を抱えこんだ。
マフラーもフィルターもステッカーも全部自分がつけたものだ。傷は僕の肩の脱臼と引き換えに大ゴケした時につけたものなので見間違えるはずがなかった。
どういう経緯で自分のほとんど全ての思い出を共に経験したバイクがこのショーウィンドウの中で値札をつけられて売られることになったのか。
僕は頭が真っ白になりなにも考えられずその場で父に電話をかけた。
電話に出た父はどこか上機嫌で酔っているような感じがした。
新しい仕事はどうかと尋ねると、まぁ大変だと答えた。
モンキーの調子はどうか、保険はちゃんと入ったのかと聞くと、調子は良い、保険にはまだ入っていない、と返してきた。
近くにいるから久しぶりにモンキーに乗りたい、家に行ってもいいか?と聞くと、ついに父は少し黙って実はモンキーは一昨日、アパートから盗まれたと言いだした。
その盗まれたはずのモンキーはキレイに値札をつけられ僕の目の前のショーウィンドウの中にあるな…と思ったがそれは口にはできなかった。
盗まれたなら警察に届けてもらっていいか?とだけ伝え、僕はショーウィンドウの数日前まで自分のものだったバイクの写真を携帯で撮り、とりあえず自分の家に帰った。
モンキーを買い戻そうとも考えたが中古とはいえそこそこの値段がつけられており、手を出したくても未成年なのでローンを組むには大人の助力が必要だったため、すぐに買い戻せなかった。
僕は家を出て以来、連絡していなかった母に電話をかけた。
母は始め驚き、次に苗字を勝手に変えた事を悲しみ、少し怒ったあとに話を聞いてくれた。
父の近況と父をどうにか更生しようとしたがもうどうにもならなかったことを伝えると、母は少し考えてからこう言った。
もうあの人と関わるのはやめなさい。あの人は、関わった人間全てを不幸にする。口達者で、丸め込まれる。洗脳される。関わると人生をダメにされる。
続けて、父のような人に少しでも優しくすると付け上がるから、完全に突き放すのもあの人のためなのよ。とのことだった。
この言葉は母が自分の人生を犠牲にして得た、父へ下した最後の答えらしかった。
今度そっちに帰ってもいいか?と聞くと、いつでも帰ってきなさい、私と〇〇さんも心配してる。(〇〇さんは旦那さんの名前)と言われ電話を終えた。
しばらく父からの連絡は無かった。
代わりに父方の祖父から電話がかかってきて烈火の如く大激怒していた。どうやら父の借金が相当膨らみ、いよいよ祖父の所に借金を取りに来る人が現れたらしかった。
お前が付いていながらどういうことだ!と言われたが、しばらく父とは会っていないのと、彼は僕に本当のことは言わないし、僕の言葉は一切聞かないし、すでにえらい金を貸しているのでもう僕にはどうしようもないことを伝えると、祖父はついに父を勘当する!と言いだした。
正直もう、どうぞどうぞとしか思えなかった。
苗字を変える時に戸籍を父の下に入れようか迷って結局自分を戸籍の筆頭にしていたため、
父の戸籍がどうなろうが僕の知ったことではなかった。
祖父的には僕も同罪らしく、気持ちついでに僕も勘当されてしまった。
名実ともに天涯孤独になった。
数ヶ月後、僕は就職先の業務研修が終わり、実務を始めていた。そして夏にはボーナスというものをもらえることを、妙に浮足だった先輩達に教えてもらった。
はじめて貰うボーナスは微々たるものだったが、生まれて初めてのボーナスだったのでなにに使おうか夢が膨らんだ。
いろいろ迷ったが結局バイク屋さんに並んでいる自分のモンキーを買い戻すことにした。
あれ以来モンキーを見るのは辛かったのでショーウィンドウには行かないことにしていたが、買い戻すと決めてから行くことに抵抗は無くなった。
バイクの値段には足りていなかったが給料から少し足せば充分に一括で払える額だったので無茶な感じはなく、ボーナスの支給日が待ち遠しかった。
なので久しぶりに父からかかってきた電話にも普通に出てしまっていた。
用件はやっぱりお金を無心する内容だった。
仕事がつらい。仕事を辞めた。酒も辞めた。自転車で僕の母の家まで行ったがすぐに帰った。新しい仕事を探すため遠くへ引っ越すかも。などなど、何かいろいろなことを電話口で話していた。僕はもう何も応えられず、取り敢えず父に会うことにした。数ヶ月ぶりに会う父は少し小さくなった感じがした。
彼は今度こそ誠実になると言い、お酒も辞めたから、最後にもう一度だけお金を貸して欲しいとたのんできた。
僕は生まれて初めて貰ったボーナスを父に渡すことにした。ただ最後に条件をつけた。
もうこのお金は返さなくて良い。お酒は二度と買うな。そしてもう連絡してこないでくれ。と父に言った。
父は黙っていたが封筒の中の金額を確認すると、もう連絡しないと言い、帰っていった。
最後にお前はなんか冷たくなった。と言われ、これがこれまで父と会った最後の日になった。
だいたい一年くらい経ったころ、久しぶりに祖父から連絡があった。
父と連絡が取れないこと。父の借金を肩代わりして祖父が支払ったこと。さらに父に自己破産をさせたことを教えてもらった。
また、たまに顔を見せに来ても良いと言われたので文字通りたまに行ってみたりした。が、だいぶ嫌味が激しかったので、祖父のところへもあまり行かないようになってしまった。
また、同じ時期にかなり遠くの県の区役所から、パンパンに膨らんだ手紙が一通届いた。
手紙の差し出し人はその区の職員さんで、手紙には父が病気を患い現在治療中だということ、病気の治療費は国から出るが、生活費と父の面倒は家族が負担して欲しい旨が書いてあった。
父は僕のお金を受け取った後、仕事を求めてこの県に行ったらしい。
僕は区の担当の方に電話をし、自分の学生ローンの返済が始まってしまい、そのローン返済の為、会社を辞めて父の元に行くのは難しい事を伝えると、区の職員さんはそういうことならわかりました。と、この件で区役所からの連絡が来ることは無くなった。
代わりに見知らぬ電話番号からたびたび電話が掛かってきて、父が病院の目を盗んで掛けてきたものだということがわかった。
日中の電話には基本的には出れなかったが、残された留守番電話から父の病名が聞き取れたので調べて見ると、かなり完治するのは難しい病気のようだった。
参考に、この病気は今年、ジャニーズ事務者の今井翼さんが芸能活動を病気療養した時に発表された病名と一緒だった。
父に会いに行ってやっても良かったが、いかんせん遠いのと、仕事がかなり繁忙を極めていてなかなかまとまった休みが取れず、ついに会いに行く機会を得られなかった。
それから数年経ち、祖母が亡くなった。お葬式に父が来ることはなかった。
親戚達や父の姉は、顔を見せた僕を歓迎はしてくれたが、父の事情を祖父が全部伝えていたみたいで、父のことになるとやはり顔を曇らせた。僕を責めはしなかったが、祖父がかなり苦労して借金を返したことを告げられた。
この時、父の姉から父が現在、長年の飲酒が祟ってついに入院したことを教えられた。
前に聞いた場所からは変わっていたが奇しくも僕が転勤で引っ越した県に移ってきていた。
会いに行こうと思えば会いに行ける距離だった。
長い前置きになってしまった。
先月、激怒されっぱなしだった祖父が大往生の末亡くなり、僕は再度お葬式で会った親戚と父の姉に、祖父の遺産相続の件の書類を任された。
来週、十数年ぶりに僕は父に会いに行かなければならなくなった。はたしてどんな顔をして会いに行けばいいんだろう。
運が悪かった父。
父は冷静な判断力を失い、なぜか人生の選択をことごとく間違えてしまった。僕が父と同じ立場だったならその選択は絶対しないだろうなという選択ばかりだった。
普通の人なら間違える判断ではなかった。
間違える前に誰か信頼できる友人や知り合いにでも相談し、助言を仰いだり聞く耳を少しでも持てば少しは違う結果になっていたのかもしれないのに。
僕は父を恨んだりしていない。
ただ、父に普通の人間に戻ってもらいたかっただけだ。
家に帰れば野球の中継でも見て悪態をつき、仕事が大変だと言えば仕事なんてそんなもんだよ、とか言って欲しかった。
あまり実家に帰らない僕に、たまには顔を出せとか言って欲しかった。
就職が決まったとき、お祝いに寿司でも食うかとか、高くなくてもいいから回転寿司にでも連れて行って欲しかった。
結婚を決めたとき、嫁に変な父親だけど、と紹介したりしたかった。
苗字を変えるとき、ほんとにこれで良いのか?と確認したりしてみたかった。
母親と離婚することなく、下らないダジャレでも言いあって呆れあっていてほしかった。
初めてバイクを買った時、乗り方とか普通に教えてほしかった。
部活の練習とか付き合ってほしかった。
学校に行かずふらついている時に、大きな雷でも落としてくれればそれで良かった。
僕がこれから会いにいくところに僕の願う父はいない。たぶん初めからそんな父はどこにもいなかった。
会いに行くのはついに動けなくなってしまった現実の父だ。
そもそも会いに行くことに意味はないのかもしれない。
事務的に書類を父の住所へ送り、サインだけして返送してくれればそれで済む。
それでも会いに行かなければいけないんだろうか。
僕には残念な父がいる。
人生の選択をことごとく放棄してしまった残念な父が。
最後までお読みいただきありがとうございました。
4コマ漫画なども描いておりますのでお口直しに良かったらどうぞ。